困った病気になっちゃったひとりぼっちな人のために


by ombres
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カテゴリ:亡くなった友達のこと( 3 )

田原節子さんのこと

昨日は咳が出過ぎ。で、電話相手のTに「その咳、変だよ」と言われたので、都内クリニック内科のU先生(主治医のU先生とは別の先生)に電話して相談してみる。「肺のガンの進行が思いがけず早かったのかしら?」などと浸っていると、単に「風邪じゃないですかネ」とか言われて終わり。まあ、進行していたとしてもとりあえず二週間はXCな訳で、ガタガタしても仕方ない。風邪については、今週金曜日に診ていただく予定なので、まあいいとした。

で、風邪だとしたら、暖かく大人しくしていれば、数日で普通に治るはず。エアボーンでビタミンとミネラルをブーストして、頭は保冷剤を手ぬぐいで包んで冷やし、足は湯たんぽで温め。余り熱が出ない体質なので、水分補給して、これでガンガン汗かきながら寝れば、大抵は平気。で、ゼローダとエンドキサンを飲んだら、久々にレンドルミンで、無理やり眠ってしまう。朝7時にすっきり目が覚める。喉のわずかな痛みと、咳ちょっとに収まっているので、大丈夫そう。

で、洗濯と、寝室の模様替え。ベッドの位置を変えてみる。ついでに徹底的にお掃除。あんまり頑張ることもないので、一日一部屋。今日は寝室だけ。病人に優しいレイアウトにKAIZEN(トイレまでの歩行距離を短く。動作数を減らす)し、アロマ用品も設置した。あとは家中のマットも洗濯して、全体に軽く掃除機かけて、終わり。肺を労わるために、お掃除中はマスク着用。今日の予定は、あとはウィルスソフトの入れ替えと溜まっているDVDを見る。終わり。何てステキ。

ここ数年は、自分がガン患者だという事を忘れて過ごしていた。3ヶ月に一度のリュープリンや通院はあっても、検査は形式的だったし、いつも異常なしだったし。最初の頃は、どこか痛いと「て、転移か?」とビクついたものだったが、それも、3年、5年と経つうちに鈍感になっていった。最初の頃は同じガン患者さんのサイトやブログをよく見ていたが、そのうち自分の日常から「ガン」は消えて行った。あえて、見ないようにしていたのかもしれない。

で、転移してから、最初の治療の頃のことを思い出してみるようにした。何たって6年も前だし、抗がん剤のせいで脳細胞も破壊されたし、ホルモン治療のせいで記憶力はウソみたいに衰えているし、もや~っとセピアな感じで、全体的にうろ覚え的だったり抜け落ちたりしているのだけど、はっきりと心に残っているシーンや言葉がある。

田原節子さんに、一度だけ、お会いしたことがある。
患者活動を活発にされていたLさんという方が、ご自分も独身だったので、私をとても可愛がってくださった。進行ガンだったので可哀想にも思っていてくれたのか、色々な所に連れ出してくださった。(今回、「転移しちゃいました」なんて報告すると、「全く、何やってんの!」何てすご~く怒られそうなので、まだ言ってません。秘密。でも、Lさんは何十年も前に全摘で、その後に海外出張とか海外赴任とかこなされていた方で、現在もバリバリご活躍中なので、男性社会で対等にやっていくには、実際には男性の何倍も頑張り続けなきゃならなくて、スローダウンなんて絶対に無理というのを、たぶん一番理解してくれるだろうとも思ったり。)

田原さんはLさんのお友達だった。
一度目は、自由が丘で「私を励ます」という目的でお約束したのだが、節子さんの体調がお悪くて実現しなかった。ガンになりたての私を励ますどころか、当時の節子さんの方がよっぽど大変な治療をされていた。

実際にお会いできたのは、春先。節子さんのご自宅(仕事場)で、ACSが販売している帽子を取り寄せて、品評会みたいなイベント。他にも節子さんとLさんのお友達のガン患者さんが数人来ていらした。失礼な話だが、私はその前にずっと日本にいなかったのと、日本のテレビや雑誌を余り見ないので、節子さんがどんな方なのか、よく知らなかった。田原総一朗さんは「朝まで生テレビ」の司会?その人の奥さん?程度の認識。

節子さんはエッセイスト。1998年に炎症性乳がんで余命半年と診断され、その後6年、全身のあちこちに転移しながらも精力的に活動を続けられて、当時、S病院で治療を受けられていた。その頃は、もう車椅子で、お嬢さんと妹さんが付き添って介護されていた。それでも、節子さんは背筋を伸ばして、そして、お二人が何か手を出そうとすると、ピシャリと叩き退け、できる事はすべてご自分でやられていた。

皆でキャーキャー笑って、お食事して。
少しだけ穏やかに春めいた日。楽しい一日だった。

ガンになって以来、ずーーーっと、年上の皆さんや先輩患者さんに「頑張ってね」と言われ続けていた私は、帰る時、

「今日はどうもありがとうございました。これからの治療、頑張ります」と無難に言ってお別れしようとした。

ところが、節子さんは、私の手を握り、

「治療、頑張らなくていいの。『生きる』のよ」

そう言われた。

「治療を頑張らなくていい」…そう先輩患者さんから言われたのは初めてだった。


数ヶ月後、節子さんは亡くなった。
私の手術の3日後。丁度、入院していたので、退院してから知った。お別れには伺えなかった。

それから6年、時間を与えられた。
節子さんが仰られたように、自分は『生きて』こられたのだろうか?

かなり不明。

でも、弱っちゃった全身に宿る節子さんの強い意思と矜持、女子高生のような皆の笑い、佃の川の水面に反射する光の美しさ、まだ肌寒かったけど僅かに春めいていた風の優しさ、そしてお食事の美味しさは、今でも鮮やかに記憶に残っている。


…結局、自分は食い気に戻る人間?
リターントゥザベーシックってヤツですかね。


節子さんの5年間の対談:
ガンサポート情報センター「田原節子のもっと聞きたい」



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by ombres | 2010-09-09 14:37 | 亡くなった友達のこと

Hさん

Hさんとは、病院で知り合った。
彼女は再発組で、若く明るく、とても美人な女性だった。
ご主人とまだ小さい娘さんが二人いた。
彼女の紹介で、医療用のウィッグを格安であつらえてもらい、仕事にはそれで通っていた。

初発の治療が、標準治療とはかけ離れてメチャクチャで、すぐに再発。
転院してきて、私と同じ主治医に診てもらい、抗がん剤治療でしばらく症状は落ち着いていた。私と同じ頃、抗がん剤をしていて、彼女は再発なので、私より長く抗がん剤を続ける予定だった。

そんな彼女が、抗がん剤治療を止めてしまったと聞いた。

「私、疲れちゃったの」

しばらくしてから会った時、彼女はそう言った。

「もう副作用に疲れちゃった。通院にも疲れちゃった。脱毛もイヤ。子供達とプールや温泉に入って遊びたいのよ」

あれは、12月頃だったか、通院で再開した時、ようやく人前に出してもおかしくないくらい生え揃ったクリクリの髪の毛を愛しそうに触りながら、彼女はそう言った。都内の東北にある病院に、彼女は多摩センターの辺りから通ってきていたと記憶している。私は横浜からで結構遠いと感じたが、多摩センターも遠い。

「でも、先生は、調子が良いからって止めちゃったらすぐまた再発しますよって」

と、これはまあ、事実だったかどうか判らないのだが、先生は「せっかく効果のある治療を途中で止める」という選択には賛成しなかった様子。

詳しい事情は分からない。
小さい子供がいた彼女の家庭の事情も分からない。
でも、彼女は治療を止め、先生の予測通りすぐに再発。その後、ナベルビンや治験薬を使用しても効果なく、副作用だけに苦しみ、先生との信頼関係も失って、症状はスピードアップして悪化したと聞いた。

「どうしてる?」と送ったメールには、

「痛いんだよね。何もできない」

と返信があった。

「痛みがあると、何も考えられなくなっちゃうよね。痛みをとってもらえるといいね」

そうメールを送っても、返事はなかった。
マメに返事してきてくれていたので、とても具合が悪いのだろうと判った。

春頃、別の患者友から、亡くなったと知らされた。

治療がイヤになっちゃう気持ちも判った。
患者は、治療で調子がよくなると、それが当たり前だと思って、現状がworseなのだと勘違いする。もっとbetterになりたいと。薬のせいで、それが阻害されているのだと。でも、現状は、それがbetterで、治療を止めたらもう想像もできないようなworse状態が待っているかも?…そんな想像は誰もしない。そして、実際には、そうでないかもしれない。

以前、女流歌人が乳がんで無治療を選び、「生き延びなくてもいい、このまま死にます」と宣言していた。「このまま」…乳がんでは、その状態のままポックリ死ぬ事はできない。結局、悪化していくと、あっちこっちに転移して、別に生き延びるためではなく、苦痛を取り除くために抗がん剤治療や手術が必要になってしまうのだ。

でも、それも本人の選択だ。
一度だけの人生、自分でどうするか選んでもいい。それが結果的に死を早めたかどうかなんて、やった人生とやらない人生と、両方比べないと判らない。そして、それは不可能。

要するに、誰にも判らない。
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by ombres | 2004-12-01 23:42 | 亡くなった友達のこと

Tさん

Tさんは声楽家。お教室やってたり、リサイタルしたり。ピアノも弾く。お嬢さん二人も、アメリカとドイツで音楽の勉強中という音楽一家。

抗がん剤治療中に知り合った。
Tさんは、ほんの小さな腫瘍。リンパに転移もなし。リスクも低かったとのこと。
超ハイリスクの私を慰めるために、

「先生にも、97%大丈夫でしょうと言われたのを、98%にするために、抗がん剤も何もかもフルコースでやったのに、すぐに再発しちゃった。だから、統計なんてあてにならないのよ。あなたは大丈夫」

そう言ってくれた。

その時は、リンパに転移中とのことだった。アメリカのお嬢さんのところに遊びに行こうとしていた矢先、脳への転移が見つかり、旅行を中止。次にあった時には、肺にも転移していて、呼吸が苦しいとのことで、酸素を運んでいた。

何かもう、会うたびにどんどん酷くなっていて、やつれて痩せて、正直、会うのが辛かった。

Tさんのお母さんは外交官の娘で、戦前、ヨーロッパで暮らしていたという貴重な記録を細かく日記につけられていた。珍しい写真も多数あった。Tさんは、それを写真とまとめて出版しようとしていた。もう亡くなられたお母さんと、そして自分の生きてきた証を残そうとするかのように、とても精力的に。

「本ができたら、あなたにも贈るわね」
「うん。楽しみ」
「もう一回、歌いたいなあ」
「また、リサイタル、できるよ。絶対に呼んでね。一番前の席ね」

たぶん絶対ない。欺瞞だ。と思いながらも、白々しい慰めを言い続けた。

放射線治療で毎日通っていた頃、Tさんは入院した。
毎日、治療の合間に立ち寄った。
Tさんは、リンパの腫れで手が麻痺してしまい、リハビリを始めていた。

「またピアノ、弾きたいわ」
「弾けるよ。だって、昨日より手が少し動いてるよ」
「そうかしら?」
「絶対に!」

ボールをようやく握れるだけになっちゃった手をマッサージした。
広尾の明治屋でシャーベットを買って差し入れた。

「何も食べれなかったのが、少し食べられた。美味しかった」

そう言ってくれて、メモをくれた。恥ずかしいから、帰ってから見てねと。

その頃、会社を中抜けして放射線に通っていたので、会社に戻って、その二つ折りのメモを開いた。

手帳か何かを切り取った紙切れ。そこには、

「いつもありがとう。とても励まされています。T」

と、鉛筆で、やっと書いたようなヨレヨレの字があった。

…会社の席で泣くわけにいかなかったので、トイレで泣いた。

Tさんが以前とても達筆だったのも知っていた。香を炊き込めた上品なカードで、夏には私の手術の退院のお祝いのメッセージをくれた。

それが今は動かなくなっちゃった手で、それだけの文を書くのに、一体どのくらいかかったんだろう?

悔しかった。
あんなにいい人が、どうしてこんな酷い目に遭わなきゃならないんだろう?
どうして何もかも奪われてしまうんだろう?
と、腹立たしかった。


私の放射線治療は終わった。Tさんは寝たきりになり、個室に移った。その病院では、個室というのは末期で死を迎える患者さんのものだった。ヒマを見つけて立ち寄った。個室にいるTさんを見ると泣きそうになるんだけど、いつも堪えた。私は彼女にとっては、「明るく元気で若い子」を演じなければならないから。

最後の会話は、もう朦朧として意識が無くなっちゃっているのかなあと思ったTさんが、ベッドの上に屈みこんで話しかける私のスカーフを握って、「赤が綺麗ね」と言ってくれて、私が「明日からオーストラリアに出張だから、しばらく来られないけど、お土産買ってくるね。元気に行ってくるからね」だった。頷いたTさんは、また意識混濁になってしまった。

その時には、アメリカとドイツから、二人のお嬢さんが呼ばれていた。

成田から出かける時に、同じ患者友から「Tさん、下顎呼吸になっちゃった。たぶんもう持たない」というメールが来た。

出張から戻って、いないと知りながらその部屋に行ってみた。
返事がないと知りながら、メールを出してみた。

「私はいいのよ。もう十分生きた。やりたい事もやった。でもね、あなたみたいな若い人は、頑張って長生きしなきゃ駄目よ。これからよ、楽しい事は」

トーンの低い穏やかな声。上品な物腰。何もかも包み込むような優しさ。
本当に素敵な女性だった。

お嬢さん二人に、自分の連絡先教えておけばよかった。でも、それが同じ病気の患者さんとお別れするのが初めてで、亡くなったら教えてくださいとか、お葬式に参加させてくださいとか、そんなことは絶対にいえないし、どうやってご家族に自分の連絡先を渡したら良いのか判らなかった。単に、「何かあったら、ご連絡くださいね」で良かったのに。

本はできたのかな?
お嬢さんが意思をついでくれていればいいな。
今となっては、確認する術はないけど。

Tさんのメモは、今でも私の会社のデスクの引き出しにある。
転職したけれど、持ってきて置いてある。

辛いことがあった時、見る。
そして、こんな私でも、誰かの支えになれた事を、もう一度心の糧にする。たとえ欺瞞でも。
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by ombres | 2004-12-01 00:30 | 亡くなった友達のこと